インド新刑法

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インド新刑法(英語名:Bharatiya Nyaya Sanhita, 2023、略称:BNS)は、従来のインド刑法(Indian Penal Code, 1860、IPC)を置き換えた刑法である。2023年12月25日に大統領の承認を受け、2024年7月1日に施行された。[1][3]

同法は強姦罪の被害者を女性として規定する一方、旧刑法第377条に相当する規定を設けなかった。このため、成人男性に対する同意のない性行為を、性暴力そのものとして処罰する個別規定が欠ける問題が指摘されている。[1][2][3]

制度の概要[編集 | ソースを編集]

BNSは犯罪と刑罰を定める法律であり、第358条第1項でIPCを廃止している。性犯罪に関する規定は、第5章「女性および子どもに対する犯罪」の中に置かれている。[1]

第63条は、男性が女性に対して行う一定の性的行為について、本人の意思に反する場合、同意がない場合などを強姦と定義している。第64条第1項は、通常の強姦罪について原則10年以上の拘禁刑を定め、終身刑まで可能とし、罰金も科す。[1]

男性差別の概要[編集 | ソースを編集]

成人男性の性被害を扱う規定の欠落[編集 | ソースを編集]

旧IPC第377条は、男性、女性または動物との一定の性行為を処罰する規定であった。2018年の最高裁判決により、成人同士の合意に基づく同性間の性行為への適用は除かれたが、同意のない性行為などへの適用は残されていた。BNSへの置き換えでは、この残された規定に相当する条文も設けられなかった。[3]

したがって、問題となっているのは合意ある同性間の関係を犯罪に戻すことではなく、成人男性の同意のない性被害を、女性被害の場合と同様に性犯罪として扱う規定が欠けたことである。第63条の被害者の定義と、第377条の後継規定の不在を合わせて、性別による法的保護の差が生じると指摘されている。[1][2][3]

保護される範囲の違い[編集 | ソースを編集]

対象 確認できる法的な扱い
女性 男性による行為が第63条の要件を満たす場合、強姦罪として扱われる。[1]
成人男性 第63条では被害者として規定されず、旧第377条に相当する性犯罪規定も設けられなかった。[1][3]
子ども 別法のProtection of Children from Sexual Offences Act(POCSO)が、性別を問わず性被害を扱うと報じられている。[3]

一方、性犯罪の個別規定がないことは、関連する行為がすべて処罰不能であることを意味しない。BNS第114・115条の傷害規定は被害者を性別で限定しておらず、Moneycontrolの取材に応じた法律家も、一般の暴行・傷害などによる対応を挙げている。ただし、これらは成人男性への性暴力を強姦罪として扱う規定ではない。[1][3]

また、第358条第2項は、旧刑法に基づく犯罪の刑罰や捜査・手続などを保存する規定を置いている。新刑法への移行によって、旧刑法の適用対象であった過去の事件が一律に処罰できなくなるという意味ではない。[1]

立法過程と社会的反応[編集 | ソースを編集]

国会委員会による勧告[編集 | ソースを編集]

内務に関する国会常任委員会は、2023年11月10日に第246号報告書を提出した。報告書の第1.14~1.17段落では、2018年の最高裁判決後も、成人間の同意のない性行為などに第377条が適用されることを確認したうえで、法案に相当する規定がないと指摘している。委員会は、第377条の存続を勧告していた。[2]

報告書は、法案の目的に性別中立の犯罪規定への移行が掲げられていることにも言及し、第377条を残すことがその目的に沿うと述べている。このため、成人男性への保護の欠落は、施行後に初めて判明したものではなく、審議段階で既に指摘されていた問題である。[2]

削除の理由と確認できる政府説明[編集 | ソースを編集]

委員会報告の第1.11段落によると、内務次官は、法案では現代の優先課題に合わせて条文を再配置し、女性・子どもに対する犯罪、殺人、国家に対する犯罪を先に置いたと説明している。報告書は、第377条を削除することも列挙している。一方、第377条の存続を検討した第1.14~1.17段落には、同意のない性行為への処罰まで削除する必要性について、政府側の説明は記載されていない。[2]

したがって、この報告書だけから「女性への保護を優先したため、男性への保護を削除した」との因果関係や、男性を除外する意図を断定することはできない。また、2018年の最高裁判決は同意のない性行為への処罰を残しており、同性間の合意ある性行為の非犯罪化と、男性の性被害への保護規定の削除は別の変更である。[2]

逆告訴への懸念をめぐる2013年の議論[編集 | ソースを編集]

関連する過去の議論として、2013年3月6日付のフェミニスト・クィア団体および個人による声明がある。Kafilaに同月8日に掲載されたこの声明は、性犯罪の加害者の定義を性別中立にすると、女性の被害申告に男性が逆告訴して取り下げを迫る可能性が生じ、被害申告を萎縮させるとして反対している。これは2013年の刑法改正をめぐる制度上の懸念であり、逆告訴が多発していたことを示す統計や事件の認定ではない。[10]

掲載者のNivedita Menonは、同月9日のコメント欄で、この声明は加害者を男性とする一方、被害者は性別中立とし、男性の強姦被害者も含める趣旨だと補足している。したがって、この声明をそのまま「男性が性被害を主張できないようにする要求」と捉えることはできない。[10]

Queerbeatの2025年5月23日の取材記事でも、活動家Chayanika Shahが、性別中立化による男性加害者からの逆告訴を懸念したと説明している。同記事は、強姦罪が性別中立ではないため、男性からの強姦の逆告訴が実際に起きるかを確認するのは困難だと記している。また、弁護士Vrinda Groverは、逆告訴の懸念だけでは男性やクィア、トランスジェンダーの人への保護を否定する十分な理由にならないと述べている。これらは性別中立化をめぐる見解であり、逆告訴の多発を理由に政府が2023年の新刑法から第377条の後継規定を除いたと示す説明ではない。[11]

専門家による削除の背景についての考察[編集 | ソースを編集]

弁護士Anand Groverは、2024年6月28日のThe Leafletへの寄稿で、第377条の削除は十分な検討を経ずに行われたと批判し、早期の是正を求めている。これは、男性などの性被害への法的な対応を欠いた変更を、立法上の検討不足として捉える同氏の考察である。政府が検討不足を認めたという説明ではない。[8]

法学研究者Jaideep Singh Lalliは、2026年2月2日のSocial & Legal Studiesのブログ記事で、植民地期の同性愛処罰規定である第377条の削除が、一見すると解放の完成に見える一方、女性を被害者とする強姦罪の定義と組み合わさることで、男性同性愛者の性被害を法律上見えなくすると論じている。同氏は、この欠落を単なる起草上のミスではなく、女性への性被害を中心に認識し、男性同性愛者やトランスジェンダーの被害を周縁化する法の構造として捉えている。これも同氏による理論的な解釈であり、政府の削除理由や意思決定の経緯を確認したものではない。[7]

インド工科大学デリー校で法哲学などを研究するArudra Burraは、2024年9月6日のSocio-Legal Review Forumへの寄稿で、新刑法を「脱植民地化」として正当化する議論を批判している。第377条を例に、植民地期に制定されたという起源だけでは規定の良し悪しは判断できず、プライバシーや同意を尊重するという内容上の基準で廃止・改正を論じるべきだと述べている。これは法改正全体の正当化論についての考察であり、男性への保護規定を削除した直接の動機を特定した説明ではない。[9]

施行後の政府対応と裁判[編集 | ソースを編集]

The Hinduは施行日の2024年7月1日、匿名の政府高官の説明として、男性やトランスジェンダーの人への性犯罪規定を追加する改正が検討され、改正までの間は不法監禁や傷害などの関連規定で対応するよう警察に求めていると報じた。これは改正の見通しに関する報道であり、改正の成立を示すものではない。[6]

2024年8月28日のデリー高等裁判所の命令(Gantavya Gulati v. Union of India)では、第377条と同等の保護を求める申立てに対し、政府側代理人が、新刑法について関係者から意見を集めており、総合的に検討すると説明した。裁判所は申立てを政府への要望として扱い、できる限り速やかに判断するよう求めた。この命令は、新たな犯罪を設けたものでも、削除の理由を示したものでもない。[5] Moneycontrolの2026年8月20日の報道は、男性などの性被害を扱う規定の欠落をめぐる訴訟を取り上げ、デリー高等裁判所が同年8月12日、裁判所が新しい犯罪を創設することはできず、立法の問題であると述べたと報じている。[3]

同報道では、法律家のAravind Narrainが、旧第377条を単に復活させるのではなく、すべての人への性暴力を犯罪として扱う必要性を指摘している。Vrinda Groverは、性別中立の条文だけでなく、被害者が直面する偏見や拘禁下での被害を踏まえ、手続・証拠に関する制度も整える必要があるとの見解を示している。[3]

一般の傷害規定では何が失われるのか[編集 | ソースを編集]

ケンブリッジ大学の法学博士課程に所属するJaideep Singh Lalliは、2026年2月2日のSocial & Legal Studiesのブログ記事で、男性の性被害を傷害や有形力の行使として扱うと、身体への損傷は扱えても、性的な自己決定や尊厳が侵害されたという被害の性質を捉えられないと論じている。これは、規定の欠落がもたらす影響についての研究者の解釈であり、政府が削除理由として述べた説明ではない。[7]

日本語圏での紹介[編集 | ソースを編集]

日本語のX上でも、2026年10月2日にNero(@neroopinion)がこの問題を扱う記事を紹介した。同投稿では、性暴力以外の罪に問われる可能性があることも補足している。この投稿は個人の説明であり、法律の内容や裁判の認定を示す一次資料ではない。[4]

出典[編集 | ソースを編集]

  1. : インド政府・法務省、THE BHARATIYA NYAYA SANHITA, 2023 NO. 45 OF 2023(2023年12月25日公布。第63・64条:23頁、第114・115条:38頁、第358条:102頁。閲覧日 2026年10月3日)
  2. : インド議会・内務に関する国会常任委員会、TWO HUNDRED FORTY SIXTH REPORT ON THE BHARATIYA NYAYA SANHITA, 2023(第246号報告書、2023年11月10日提出。第1.11段落:本文4~6頁、第1.14~1.17段落:本文9頁。PRS掲載の報告原文。閲覧日 2026年10月3日)
  3. : Rewati Karan/Moneycontrol、2 years of BNS: How dropping of Section 377 has left men, transgender survivors of sexual violence unprotected(2026年8月20日。閲覧日 2026年10月3日)
  4. : Nero/X、XユーザーのNeroさん: 「こういう話です。 一応、性暴力以外の罪に問われる可能性はあります。 インドで成人男性に対する強姦が合法化。これは日本の未来か?|Nero Report https://t.co/1Dy5POAjQL」 / X(2026年10月2日投稿。閲覧日 2026年10月3日)
  1. : デリー高等裁判所、GANTAVYA GULATI v. UNION OF INDIA(W.P.(CRL) 2474/2024、2024年8月28日命令、第4・5段落。Verdictum掲載の命令原文。閲覧日 2026年10月3日)
  2. : Vijaita Singh/The Hindu、New criminal laws in India: Centre likely to amend BNS to include section on sexual crimes against men, transgender people(2024年7月1日。閲覧日 2026年10月3日)
  3. : Jaideep Singh Lalli/S&LS Blog、Decriminalised into Invisibility: Section 377, the BNS, and the Penal Hierarchy of India’s Transgender Rights Act 2019(2026年2月2日。閲覧日 2026年10月3日)
  4. : Anand Grover/The Leaflet、The thoughtless Section 377 IPC oversight in the BNS(2024年6月28日。閲覧日 2026年10月3日)
  5. : Arudra Burra/Socio-Legal Review Forum、‘Decolonising’ the Law: The Wrong Answer to the Wrong Question(2024年9月6日。閲覧日 2026年10月3日)
  6. : フェミニスト・クィア団体および個人による声明(掲載者 Nivedita Menon)/Kafila、Gender Just, Gender Sensitive, NOT Gender Neutral Rape Laws(声明日2013年3月6日、掲載日同月8日。掲載者による同月9日の補足コメントも参照。閲覧日 2026年10月3日)
  7. : Sayantan Datta/Queerbeat、Why gender-neutrality won’t fix India’s broken rape laws(2025年5月23日。閲覧日 2026年10月3日)